ブロッコリー

普段考えてることを書くってことは、文字に起こすってことは、なんて言うか逃げられない感じ。嘘つけない感じ。書いたものは茹でたレタスみたいだ。ほんとうの姿はくちゅくちゅで、情けない。もっと立派だったはずなのにな。おかしいな。

 

どうせなら自分の頭の中にはブロッコリーを植えたいな。栄養満点、ブロッコリー質実剛健ブロッコリーサイヤ人最強もブロリーだ。つまりそういうことです。

11月19日日曜日の記録

15日と16日は会社の展示会で、受付に控えてクローク業務をした。別に重労働じゃないが、緊張しながら立っているだけでもけっこう疲れる。拘束時間が普段より長いし、会場も会社より遠い。まあくたびれる。

 

17日金曜日は飲み会。めずらしく二次会まで出て、解散は23時。それほど飲まなかったけど、まあ多少はくたびれる。

 

18日土曜日は新居の契約。事務所を出ると寒くて雨が降っていた。磯丸で昼を食べて、駅周辺でいろいろの用事を済ませてから家で遊ぶ。楽しい、うれしい。それでもまあくたびれる。のんびり帰って、だらだらしてたら就寝は2時。

 

ともかく、またあれが、発作が起こるまではこんな風に過ごした。朝9時くらいに一度目が覚めて、あ、サンデーモーニングのスポーツもう始まっちゃってるじゃん、と思ったのは何となく覚えている。寝入り端と寝起きすぐに起きやすいというから、きっとこの瞬間があやしいとは思うけど、やっぱり前後のことはよく思い出せない。その後の記憶は、レオパレスの青いカーテンから漏れる薄明、これまで経験のない前頭部の激しい痛み、なんとか身体を起こしたときにさらに襲う頭痛と目眩、脱力感。かつてない苦しさ。身体に筋肉痛がないことをすぐに確認し、痛みの正体は分からないが、これは持病の発作とは違う、と直ちに断定した。自分はそれほど切羽詰まっても発作と認めたくなかったらしい。発作ということになると運転がまたさらに遠のくばかりか、時々薬を飲み忘れることを方々からこっぴどく叱られねばならないのだ。でも筋肉痛がないから大丈夫、そう思ったのに、翌日手ひどく裏切られることになる。年齢の実感とともに。

 

一日中布団にすがり、寝て目を覚ましてを繰り返していた。15時頃痛みに耐えかね、レオパレス住みの同期に頭痛薬はないかと尋ねるも、得られず。思えばその前にロフトによじ登って探してもいた。ひっくり返らなくてよかった。18時頃、やや落ち着きスギ薬局に出かけてロキソニン購入。ひどい寝癖も気にしてられん。ファミマに寄って豚汁とおにぎりを2個買う。体調を崩しても案外食欲あるもんだ。帰って飯食って薬飲んで、一度眠ったら大分よくなった。23時くらいにまた眠って5時に起き、がんばって会社へ。

 

結局これは偏頭痛だったのだろうか。動くと痛みが増すこと、寝込むほどに一部がガンガン痛むって部分は合致するけれど、ロキソニン効いてる風なのと、脈打つような痛み、音や光に過敏になるって辺りは噛み合わない。まだもやもやは残る。

 

まだ完全復調ではないし、これからのことを思うと憂鬱ではあるけれども、これは単調な生活感情を震撼させる強烈な体験でもあった。人の弱さや恐れや病、あるいは他人のありがたみの実感に近づく契機となりえる。特別な、体験でもあった。

いとこの結婚式で、教え子たちからのビデオレターが流れた。子供だから当然とはいえ、やはり少々、拙い。つい視線を外した先に、父の横顔。

楽しそうに、じっと見ていた。

 

先日甥っ子と初めて対面した。父にとっては初孫になる。終始、あまり見たことのないほど嬉しそうな顔をしていた。聞いたことのない声であやしていた。

 

一枚の写真を思い出す。しゃがみこんで上目遣いにカメラを見る父と、その背中にでんと立って得意そうにしている自分。

心に残っている写真。

なぜか涙が出そうになる写真。

 

 

子どもと触れ合っているときの彼はどうしてこんなにも心を揺さぶるのだろう。

 

俺の父親だ。

 

 

明日早いのに眠れない

うーん何書こうかなあと体重計の前に立つや否や全身の血管が神経が自我を、我執を、前頭葉に集めよくこね回してから指先に伝えずしん。太り過ぎですねー。ダイエットしてくださーい。事務的な、退屈そうな声。飼いふとらされた自我よ、いつになったら痩せるつもりか。

 

俺の書きたいのはくだらぬ日常のあほらしい想念、自意識過剰の産物じゃなくそう例えば、今日新聞を読んでいたら自分の知るジャズ・ピアニストの訃報に触れ、その軽やかな響きとともに、8年前ニューヨークでそれを聴いたとあるバーでの夜のことを思い出す…。みたいなね。一万倍あほらしい。謎の浪漫派発動した。おまけに村上春樹かぶれを匂わせる。いかん。今は町田康くんが好きなの。あの人の文体しか愛せないの。あなたとはもう終わったのよ。さよなら。

はよ寝ろ。

 

 

8:20

やってしまった。

 

大体目が覚めたときあ、これやばいなって気づくけど、今回は予想以上に遅かった。あーあ。

 

アイツまたやったのかって言われた。またって言っても前やってから確か一年くらい経ってるぜ。一年に一回って多いのかな?たとえばバレンタインデーも年一回あるけどどうだろう。年に一回のそわそわする日と、年に一回のぐずぐずする日。そう思うとちょっと楽しい。

 

きのう別に夜更かししなかった、いやむしろ早めに寝たんだけどな。もっと早く寝なきゃいけなかったんだな。ちょっと疲れることあるとすぐこれだ。一生寝坊癖直る気しないや。いや直るけどそれはつまり俺もいよいよ歳を取ったんだなと新たなる哀しみに取って代わるときかも知れぬ。悩みは尽きぬものよのう。

 

そしていま俺がちゃんと社会人としてやっていくにはいつもマジメに早く帰ってマジメに早く寝るしかないんだ。似合うじゃん。そうでなきゃ朝も起きられないしょうもない奴になっちゃうからね。ねー。

 

なんてもう今さら甘えたこと言ってもしゃーない。優先すべきことを選んで、地に足つけてやっていかなきゃ。

大学生みたいな服だなと兄に言われた。服なんかに大金かけてられるか馬鹿野郎。物事には優先順位ってもんがあるだろうが。大体服にこだわる奴はださい。服を身にまとう自分への執着が滲むから。それが目に付くとみっともない。あさましい。

 

だが思うに服は気分や思考、行動選択に影響している。正装すると自ずと気分も引き締まるというもの。服を選ぶときには、たぶんこんな風でありたいとか、こんな気分で過ごしたいという思いをそこに投影している。思い切って言えば、服は人を表している。逆に、服に着られるという表現があるが、これは服が象徴するイメージと着ている本人の自己イメージとの乖離のために、振る舞いがぎこちなく上滑りしてしまうことを指しているように思う。もっとこういう恰好をしたら良いのに、と他人に指摘したくなることは多くの人が経験すると思われるが、その恰好と相手が自分自身に対して抱いているイメージ、または相手のかくありたいと想像しているイメージが折り合えない限り、説得は望み薄というものだ。

 

とすると、大学生の恰好をしているという自分は、未だ大学生の気分から抜け出せていない、もしくは過ぎ去った大学時代に憧憬を抱きつつそういう恰好をし続けている、ということができるかもしれない。

 

いや出不精アンド金無しがでかいわどう考えても。入間のアウトレット行こーっ