細かいことは気にしない彼のやり方を俺は少し見習うべき
きのうは仕事をして、ジューの日だから倉橋でお好み焼きを食って、山手卓球で一時間卓球をして、それから帰ってブラジル相手の代表戦を見た。
今日は一日中寝転がって、納豆とレトルトご飯と菓子を食って、youtubeを見てサッカーを見てワンパンマン読んで囲碁をやった。
こんなんでいいんだこんなんで。要するに毎日体重計に乗ったり家計簿をつけたりするのと同じことなんだ。精神の体重計。自分の考えることなど小数点以下含む4桁の数字が持つ情報量と大して変わるものでもない。いい数字が出ないことがわかっていても直視し続けることが大事だ。
記憶は改竄される。だから、できるだけ嘘にならないように、そのときそのときの感情や思考を日々そのままの形で残し、その点を繋いだ軌跡でもって自己の輪郭を確かにする。そういう目的があったはずだ。
いま教員になりたい動機を聞かれたとしたら、やりたいこととできることの結び目だからと答えるだろう。やりたいことは文学。言葉によって表現するということと、それが表現しようとしていることに特別の価値を感じているから。できることは教員。説明したり教えたりするのは下手じゃないと思っているし、教員の両親の下に生まれ、それにふさわしいキャラクターに育ったと思うから。物書きや文学者の方があこがれるけど、すごく本を読むというほどでもないし、物事を突き詰める集中力や執念はあまりない。それでも文学に触れていたいから、高校の国語の先生くらいがちょうどいい。
これが最新の言い訳。自分の行動に日々言い訳しながら生きているんだ。昨日も今日も。明日もそうかな。やだな。
ちゃんと体重はかろ
痴人の愛 谷崎潤一郎
美しい女。白くくっきりとした目鼻立ちの顔に落ちかかる黒い髪。厚みのある背中にくびれた胴。衣服越しにたっぷりと丸みを帯びた臀部。妖艶と若き生命力と西洋的なるもの。それへの憧れ。すべてを味わいつくしてもなお飽くことのない欲望を抱くところのこの女、この女にどこまでも辱められ虚仮にされ苦痛を味わわされたとして、世にまたとないこの女がそれでも自分を見ているのならこれははたして不幸であろうか。絶対的な存在は私たちの未来に訪れるだろうか。それが私たちとともにあることなど期待できるだろうか。河合譲治は不幸ではない。
別にMじゃないが。
しんせかい 山下澄人
「ぼく」は「天」から「谷」へ降りてきた。谷は木々におおわれ視界をさえぎられ、姿の見えない生きものたちが暗闇をうごめき鳴き声を上げる。冬には雪がつもってまわりが白くなる。人間たちはわずかに森を切り開き、労働にいそしみ暮らす。話し合い、時にいさかいながら。人間たちに信仰されている神がいる。神に認められた人間は谷から出た後の救済が約束されている。人間はみな神を崇めている。ぼくを除いては。ぼくは神を信じていない。ぼくは天を信じている。天から時折舞い降りてくる葉書がぼくの心を貫いている。ぼくは谷を駆け回る。馬の背に乗って駆け回る。ぼくは谷を飛び回る。息が切れ、体がしびれても、ぼくの肉体を離れて飛び回る。
ぼくはしんせかいでぼくを見た。
そこにいるのを見つけた。
天はやがていなくなった。
ぼくは天に満月を見た。
ぼくは谷を出た。